■一万分一地形図東京近傍(明治四十二年測量大正十年第二回修正測量)より抜粋
※1 出典: 東京市及接続部地籍地図・小石川區丸山町(大正1年刊)※2 出典:『ぶんきょうの坂道』(文京区文京ふるさと歴史館発行)※3 出典: あとらす23号/ 川崎別邸とわが町、小石川丸山町(西田書店)
史書を紐解けば、現地は江戸時代の武家地跡地にして、その区割りが今に残る歴史ある屋敷町の一画。周辺には、加賀百万石の藩主松平( 前田)加賀守の中屋敷をはじめ、上総鶴牧藩主水野壱岐守のお抱え屋敷、幕府の要職を務めた池田甲斐守、平岡石見守の下屋敷が並び、さらに十五代将軍・徳川慶喜( 幼名、一橋刑部卿慶喜)のお抱え屋敷などが広がっていました。
明治維新後の廃藩置県によって、武士が国元に帰ると、空き地となった高台の旧武家地に当時の華族や富豪が移り住み、山の手と呼ばれる邸宅地が形成されていきました。麹町、赤坂、本郷、小石川などが山の手の代表的な地区とされています。明治2 年より小石川丸山町と呼ばれた現地も、まさに山の手の流れを汲む邸宅地としての歴史を歩んできました。明治から大正にかけて、伏見宮、桂宮と並ぶ宮家、有栖川宮熾仁親王( ありすがわのみやたるひとしんのう)邸をはじめ、華族、亀井伯爵邸、松井子爵邸、そして往時の金融系財閥として知られた川崎財閥の当主別邸( のち本邸)、さらに川崎財閥ゆかりの実業家の屋敷など、小石川丸山町には錚々たる名士が居を構えていました。
◎現地の地名の変遷/1700年頃・小石川火之番町→1869年(明治2年)・小石川丸山町→1911年(明治44年)・丸山町→1967年(昭和42年)・千石三丁目